技術と法律の架け橋として歩んだ三十年
- 紹介
辻本 典子 バイオ・化学グループ 弁理士
1. 研究成果を社会につなぐ仕事を求めて
私はポストドクトラルフェローとして研究に従事した後に、特許業界に入りました。研究という仕事には大きな魅力があります。未知の現象を解明し、新しい知見を発見することは知的好奇心を大いに刺激します。また、自らの努力によって新たな知識を生み出していく過程には、研究者でなければ味わえない喜びがあります。
しかしその一方で、研究を続ける中で次第に別の思いが芽生えてきました。それは、研究そのものではなく、研究成果が社会に還元される過程に関わりたいという思いでした。
優れた研究成果も、社会に用いられて初めて多くの人々の役に立ちます。医薬品、診断技術、化学材料、バイオテクノロジーなど、多くの技術は研究室から社会へと橋渡しされることで価値を生み出します。私はその橋渡しに携わる仕事がしたいと考えるようになりました。そこで改めて自分自身の適性を見つめ直しました。
まず、薬学・生物学の専門知識を活かしたいという思いがありました。次に、英語の読み書きが好きであること、文章を書くことが好きであるという自分の特性を活かしたいと思いました。
この三点を考えて、弁理士という職業が自分に適しているのではないかと思い至りました。そして私は研究の世界から特許の世界へ進むことを決意し、特許事務所へ就職しました。あれから三十年近くが経過しようとしています。今振り返っても、あの時の選択は私にとって幸運なものであったと思います。
2. 専門知識を活かせる喜び
私は弁理士人生を通じて、薬学・生物学を中心とした化学系の案件に携わってきました。化学・バイオ分野は特許の世界において独特な点もあり、実施可能要件やサポート要件などの点で他の分野にはない難しさがあります。また大学発明などは、技術内容が高度であり、発明の本質を見極めることが難しい場合も少なくありません。
医薬発明であれば薬理データや作用機序を理解する必要がありますし、バイオ発明であれば分子生物学や生化学の高いレベルの知識が求められます。発明者が当然の前提としている技術的背景を理解できなければ、適切な権利化を行うことはできません。その意味で、大学や大学院で学んだ専門知識は現在でも私の大切な財産です。もちろん、技術は日々進歩しています。私が研究に従事していた三十年前には存在しなかった技術領域もありますが、基礎的な科学的思考力は変わりません。専門知識を土台として新しい技術を学び続けることができる点も、この仕事の魅力の一つであると感じています。現在の技術の進歩は非常に早く、過去の専門分野の知識は直ぐに陳腐化してしまいますので、弁理士は勉強をし続けて常に新しい技術を身につけることが求められます。しかし大学や大学院で専門知識を身につける過程で培われる論理的思考力や問題解決能力は、生涯にわたって大きな力になると考えています。
3.「 翻訳者」であることが弁理士の一つの側面である
私は長年実務に携わる中で、弁理士の仕事の本質は「翻訳」にあるのではないかと考えるようになりました。もちろん、ここでいう翻訳とは日本語と英語の翻訳だけを意味するものではありません。研究者や技術者が語る科学技術の言葉を、法律の世界で機能する言葉へと変換することです。
大学発明などを扱う際には、このことを特に強く感じます。研究論文では、得られた研究成果の学術的意義を示すことが主目的です。
一方、特許制度では、何を権利として保護するのかを明確に示さなければなりません。実験データや実施例の中から発明の本質を抽出し、どの構成が権利化の対象となるべきかを見極めることは最も重要ですが、その仕事は弁理士の技術者としての側面です。そして、その内容を請求項という法律文書に落とし込み、法的に有効な権利として構築することは法律家としての仕事です。
この二つの側面を併せ持つところに、弁理士という職業の独自性があります。私はこの仕事を続ける中で、理系と文系の双方の視点を行き来しながら仕事ができることに大きな面白さを感じてきました。
4. 明細書作成は「権利設計」である
弁理士の最も主要な仕事は明細書の作成ですが、明細書は単なる技術文書ではありません。明細書は法的な権利範囲を定める法的効果を有する文章であり、明細書を作成する過程で、弁理士は出願人のニーズを満たす権利範囲を設計します。
将来どのような製品が市場に出るのか。競合他社はどのような回避設計を行う可能性があるのか。どこまで広い権利範囲を確保できるのか。サポート要件や実施可能要件との均衡をどのように取るのか。こうした点を考慮しながら弁理士は明細書を作成します。
特許権は、その特許権に関する発明を独占排他的に実施する権利です。その権利範囲が曖昧であれば、将来的に紛争の原因となります。逆に権利範囲が狭すぎれば、十分な事業保護ができません。技術を理解し、法律を理解し、さらに事業を理解した上で最適な権利範囲を設計することが求められます。このような知的作業こそが、弁理士業務の本質であるように思います。
5. 知財戦略は事業戦略である
近年、知的財産の役割はますます重要になっています。企業が特許出願を行う目的は、単に特許査定を得ることではありません。事業を守り、競争優位を確立することにあります。したがって、弁理士も技術だけを見ているのでは十分ではありません。出願人がどの市場を目指しているのか。競争相手は誰なのか。将来的にどのような事業展開を考えているのか。そうした背景を理解した上で知財戦略を考える必要があるので、弁理士には多面的な能力が必要とされます。
6. グローバル化と語学力
私が特許業界に入った頃と比べると、現在の知財実務ははるかに国際化しています。多くの企業が海外展開を前提として特許出願を行っており、外国出願や国際出願は日常業務となっています。そのために現在の弁理士にとって語学力は重要な武器になります。私自身、もともと英語の読み書きが好きでした。その興味を仕事に活かすことができたことは大きな幸運でした。もっとも、外国案件で求められるのは単なる英語力ではありません。どのような些細なものでも明細書の誤訳は権利取得の致命傷になる危険があるので、通常の翻訳と比較して、明細書の翻訳には非常に高いレベルの正確さが求められます。また技術内容を理解し、その技術的意味を正確に伝える能力が必要です。
このように特許の世界では技術、法律、語学の三つを統合して考える能力が求められます。AI翻訳が進歩しても、技術的・法的なニュアンスを理解しながらコミュニケーションを行うという、弁理士の能力の価値は変わらないと思います。
7. 成長は限界を超えた先にある
弁理士資格を取得する前、私は特許技術者として働きながら受験勉強を続けていました。仕事を終えた後に勉強する日々は大変でしたし、思うように勉強の成果が出ない時期もありました。しかし、その経験が現在の私を支えていることは間違いありません。
また、資格取得後も決して平坦な道ではありませんでした。特許実務には厳格な期限があります。案件が集中する繁忙期もあります。難解な技術内容や困難な拒絶理由通知への対応もあります。弁理士の職務は精神的にも肉体的にも負荷の高い仕事です。しかし、そのような経験を乗り越えるたびに、自分自身の成長を実感することができました。よって特に若い方々には、「自分には少し難しい」と感じる仕事から逃げないでほしいと思っています。現在の能力では少し難しいと感じる案件にも挑戦し、苦労しながら乗り越えることで、初めて新しい力が身につくと考えています。
8. 理系と文系を結ぶ仕事
私は高校時代もともと文系志望であり、大学では語学を学びたいと考えていました。しかし当時の担任の先生から、「理系と文系の成績差が少ないのであれば、これからは女性もずっと仕事をする時代であるから、理系に進んで技術を身につけてはどうか」というアドバイスを頂きました。そして高校三年生という遅い時期に進路を理系へ変更しました。当時は大きな決断でしたが、その選択が現在の仕事につながっています。
弁理士という職業は、理系の知識と文系の感性の両方を必要とします。より具体的には、技術を理解する力、論理的な文章を構築する力、法律的な思考力、語学力です。これらが融合して初めて、弁理士として質の高い仕事を行うことができるのです。私は若い頃には文系と理系の間で進路に迷いましたが、今ではその両方を活かせる職業に出会えたことを幸運に思っています。

