PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)特許

  • 解説

上利 美由紀 バイオ・化学グループ 弁理士/特定侵害訴訟代理業務付記弁理士

 筆者は、2002年から2007年までの5年間、外資系の臨床検査薬メーカーでPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)検査薬のマーケティングとカスタマーサポートに従事しておりました。このメーカーはPCRの基本特許の特許権者であり、PCR検査薬で大きな利益を上げていました。新型コロナウイルスの検査関連でPCR検査が一般にも知られるようになり、新聞、TV等でPCRが取り上げられるたび、勤務当時のことが思い出されました。ここでは、当時のPCR検査の状況を思い出して感じることを述べたいと思います。

 生物の遺伝情報は、遺伝子、具体的には、デオキシリボ核酸(DNA)またはリボ核酸(RNA)という物質の中に保存されています。DNAまたはRNAは、生物を形作るタンパク質などを作るための設計図としての役割を担っています。

 DNA(RNA)は、4種類のデオキシリボヌクレオチド(RNAの場合は4種類のリボヌクレオチド)が、ランダムに鎖状に多数連結した構造を有します。4種類のデオキシリボヌクレオチドは、それぞれアデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)(RNAの場合は、A、ウラシル(U)、G、C)という塩基を有します。このA、T(U)、G、Cの配列の違いによって、作られるタンパク質の種類や量が決まり、生物の様々な性質が決定します。

 ポリメラーゼ連鎖反応(PCR)は、ごくわずかな量のDNAを短時間で何百万倍にも増幅させるための技術です。1983年にカリー・マリス博士によって開発され、分子生物学の研究や医療、法医学など、様々な分野で非常に重要なツールとなっています。

 PCRは、サンプルに含まれるDNAの特定の配列を鋳型に、人工的に作成した20塩基程度のDNA断片を手がかり(プライマー)として、酵素(DNAポリメラーゼ)を用いて、4種類のデオキシリボヌクレオチドから新たなDNAを合成する反応です。合成したDNAを鋳型として、さらに新たなDNAを合成することを20~30回程度繰り返すことで、DNAの量を1~2時間で数百万倍まで増幅させることができます。

 一部のウイルスの場合、遺伝子はDNAではなくRNAの中に保存されています。RNAは、これを鋳型として逆転写酵素を反応させることで、対応する配列(相補配列)を有するDNAを合成することができます。これを利用して、一度RNAからDNAを合成し、これを鋳型としてPCRを行い、DNAを増幅することができます。

 このように、サンプル中に検出目的のDNAまたはRNAがある場合、従来では検出できない微量であったとしても、これを増幅して高感度で検出することが可能となりました。

 PCRは、目的とする遺伝子の塩基配列に基づいて、プライマーの塩基配列を設計しますが、このプライマーの塩基配列を、他の遺伝子には存在せず、目的の遺伝子のみに存在するものに設計することで、多種多様な遺伝子を含むサンプルを用いた場合も、他の遺伝子を誤って増幅するリスクを減らし、目的の遺伝子だけを増幅することができます。

 PCRは、生物種に関わらず、プライマー以外はほぼ共通の酵素や化合物を用いて行うことができ、プライマー配列の設計を適切に行えば、目的の遺伝子領域について、簡易に増幅系を構築できるという特徴を有します。増幅した遺伝子領域のDNAは、その後、DNA定量、DNA配列解析、遺伝子発現解析、遺伝子多型解析など、様々な解析に使用することができます。

 PCRの技術は、上記のように、感度、特異度に優れ、かつ操作が簡易な遺伝子解析技術であることから、分子生物学分野の研究において広く活用されてきました。

 PCRの技術を医療現場で使用できるキットとしてパッケージ化し、わが国で最初に体外診断用医薬品として厚生労働省の承認を得て販売したのは、PCRの基本特許の特許権者の日本法人(A社)でした。実際にPCRを応用した最初の体外診断用医薬品は、1990年代中ごろに発売された結核菌感染症の診断に用いるキットであり、その後、感染症診断用のキットが続々と上市されました。

 PCRは、DNA(またはRNA)を増幅させる技術であり、増幅後のDNAを検出すればよいため、従来検出不可能だった微量の感染細菌やウイルスであっても検出可能である、という強みがある一方で、これを医療現場で応用するには、重大な問題がありました。

(問題1)他のサンプルのDNA(RNA)が混入することで偽陽性が生じるリスクがある
 医療現場での検査は、1つのサンプルだけを処理することはほとんどなく、一度に複数のサンプルを扱いますが、サンプルと試薬を混合する工程で、エアロゾル等を介して非常に微量のサンプルが他のサンプルに混入するリスクがあります。通常、他の検査では、他のサンプルが微量に混入したとしても問題となりませんが、PCR検査はDNA1分子を数百万分子にまで増幅できる工程を介するため、微量の混入であっても偽陽性が生じる要因となります。

(問題2)増幅後のDNAが増幅前のサンプルに混入することで偽陽性が生じるリスクがある
 増幅後のDNAは、その後、容器から取り出して検出操作を行う必要がありました。検出操作の際に、増幅後の多量のDNAを含むサンプルから、エアロゾル等を介して増幅前の微量のDNAを含むサンプルに増幅後のDNAが混入するリスクがありました(なお、現在は、増幅と検出を同時に行うリアルタイムPCRが主流であり、増幅後のDNAを容器から出す必要はなくなりました)。

 このように、PCRは、微量の病原菌・ウイルスを検出できる、という強みがある一方、誤診を生じるリスクがあり、対策を講じる必要がありました。

 PCRを応用した検査の問題点を解決し、医療現場に普及させるため、A社は、特許権者の強みを生かして、カスタマートレーニングを徹底しました。立場上、実質的にPCRを医療現場で用いるユーザーをすべて把握できていたことから、すべてのユーザーに偽陽性対策の以下の提案を行うことが可能でした。

(対策1)エリア分け
 DNA増幅前のサンプルと、増幅後のサンプルを扱うエリア(部屋)を完全に分ける。使用する白衣もエリアによって着替える。これにより、増幅後のDNAが増幅前のサンプルに混入することを防ぐ。

(対策2)サンプルチューブの形
 開閉時にエアロゾルを生じやすいスナップキャップ式のチューブではなく、スクリューキャップ式チューブを用いる。また、キャップを開ける前に小型遠心分離器で数回転させ、キャップについた液体を容器内に落としてから開閉する。

(対策3)ピペッティング
 サンプルを他の容器に移すときなどは、液が飛ばないようピペットをサンプルチューブの壁につけて静かに注入する。

(対策4)検査室の清掃
 使用後の実験台は、次亜塩素酸ナトリウム水溶液で消毒しておく。次亜塩素酸ナトリウムは、実験台等に残存する不要なDNAを分解する効果がある。

 このような偽陽性対策のための提案を、顧客に継続して行ってきたことで、臨床検査の業界で、PCR検査を含む核酸増幅検査で上記の対策をとることが浸透したと思います。

 2007年より、公益社団法人日本臨床検査同学院が、主に臨床検査技師を対象として、遺伝子分析科学認定士認定試験を年1回実施しています(筆者は第1回試験の合格者です)。試験内容は、染色体検査等を含む遺伝子検査全般に関する広範な内容ですが、PCR等の核酸増幅検査の注意点に関する設問もあり、その内容は、A社が繰り返しカスタマートレーニングで顧客に提案してきたこととほぼ一致していました。特に、実技試験としてピペッティングの実演を行うのですが、その操作上の注意点も、A社のカスタマートレーニングとほぼ同じ内容でした。A社の活動だけが影響したものではないと思いますが、業界の認定試験に単なる一企業が努力して普及したことが正確に反映されていることに、「ああ、浸透したなあ」と感激したことを記憶しています。

 上記の基本特許の権利も満了し、PCR検査を中心とする遺伝子検査は、高感度かつ正確な検査として、現在はかなり普及し、一般的なものとなりました。しかし、PCR検査の日本での導入当初に十分な対策がとれていなかったら、「PCR=偽陽性が多い」という認識が業界内で定着し、普及が大幅に遅れたかもしれないし、その結果、新型コロナウイルス流行時に、当時のように迅速なPCR検査の普及ができていなかったかもしれない、と考えると、権利者の責任の重さを感じざるを得ません。

 筆者自身は、PCR検査がある程度普及した後に先輩の仕事を数年間引き継いだだけではありますが、当時の働きが、非常に微力ではあっても、現在の検査の普及に貢献できていたのなら、当時辛くても頑張ってよかったと思います。

上利 美由紀

国内製薬会社、外資系製薬会社、及び国内特許事務所での勤務の後、2019年に平木国際特許事務所に入所。高分子化学、バイオテクノロジー、医療機器等の多くの分野の特許出願、権利化業務、調査等を担当。
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