写真の歴史に思いを馳せて

  • 解説

渡邉 信行

 この度、思いもかけず本稿執筆の依頼を受け、何を書いたらよいのか迷いましたが、趣味に関する話などから始めてみようと思います。
 わたしの趣味は写真(機)なのですが、始まりは小学校の高学年の頃に遡ります。当時、写真機は家族所有で、フィルムの入手も容易ではなく、一枚の写真を撮るのにも随分な勇気が必要だったこと、初めての暗室作業に大変興奮したことなどをよく覚えています。
 それからおよそ半世紀が経過し、21世紀も四半世紀を過ぎた現在では、誰もがカメラ付きの電子機器を常時携帯して、日常的に写真の撮影がおこなわれており、写真撮影などは最早趣味と呼べるほどのものではなくなりつつあるように感じています。
 それでも、撮った写真を眺めていると、撮影時には全く気付いていなかった事象や、そのときの気分までもが映り込んでいることに気が付くことがあります。写真は過去の風景だけでなく、撮影者の気分も含めてあらゆる事象を平等に記録します。そのようなことを思ったとき、写真出現以前の世界や、最初の写真が出現した時代は、どのようなものだったのだろうか、と気になって、調べてみることにしました。

 光の作用によって物体像が形成されるという現象は、東西を問わず紀元前より広く知られており、古代中国の文献には、小さな穴(ピンホール)を通過した光が倒立像を結像させる現象についての記載がみられるそうです。また、古代ギリシャでは、紀元前3~4世紀頃のユークリッドの文献が最古の記録のようです。このような光に関する知見や研究は、東の中国では学問としては成立せず、西ではギリシャから9世紀頃のアラブ世界を経て、13世紀頃には欧州へとたどり着きます。
 その間、哲学者あるいは自然科学を研究対象とする科学者達の興味を大いに引きつける対象であり続けていました。
 部屋サイズの箱の片側の壁に開けた小穴を、外光が通過し、小穴とは反対側の内壁に外の風景の倒立像が結像されて、二次元の壁面上に現実世界の三次元風景像が投影されるという装置が作られたのは10世紀以降のことです。このような装置を、カメラ・オブスクラ(ラテン語で「暗い部屋」)と、後年名付けたのは17世紀のドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーだとされています。江戸開府の翌年1604年のことです。
 このような箱の中に入り、あれこれ考察するのが学者達で、同じ箱の中に入り、壁面に紙を貼り付け、紙上の像をトレースし、写実的な絵画の下絵を得るという使い方をしたのが画家達です。その後、15世紀頃の欧州では、小型で携帯可能なカメラ・オブスクラが写生の補助器具として実用化され、芸術家の間で広まります。16世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチも写生に利用していたそうです。
 カメラ・オブスクラでは、光の通る穴は小さいほど鮮明な像が形成されますが、光量が減少するので像自体は暗くなります。また、穴を小さくし過ぎると、回折の影響でボケた像になります。そこで、16世紀半ば頃には、小穴の代わりに凸レンズを置くことで、より明るく鮮明な画像を取得することができるようになります。
 カメラ・オブスクラが形成する画像を固定し定着させる技術は、ヒトの手によるトレース描画以外には、長い間存在しませんでした。しかし、19世紀に入りようやく写真術が発明されます。技術発明の世界では、同じ目的を達成する手法が同時多発的に複数の場所で発生することがあります。ケミカルプロセスによる写真術の発明でも同様でした。

 写真術で最も早い段階のものは、1820年代にフランスのジョゼフ・ニセフォール・ニエプスによるものが世界初とされており、1822年撮影の写真(原版が不存在)のほか、1826~27年頃に自身の研究室からの眺望を撮影した「ルグラの窓からの眺め」と題された写真が「原版の存在する世界初の写真」として認定されています。ニエプスは自身の写真術を、ギリシャ語の「太陽(helios)」と「描く(graphein)」とを合わせて、「ヘリオグラフィ」と名付けました。
 ニエプスのヘリオグラフィは、板状支持体(当初は鉛錫合金板のち銀メッキ銅板)の表面にビチューメン(瀝青)を塗布して感光剤とし、その板上に物体像を投影すると、露光量の少ない輪郭部分は瀝青が固まり難く、平面部分は光の作用で固くなり、露光後にラベンダーオイルとワセリンで板面を洗浄すると、露光量の多い硬化部分に瀝青が残留し、輪郭部分の瀝青は洗い流される結果、板上に溝が形成され、この溝にインクを流入させて印刷原版にするというものです。
 このヘリオグラフィの技法は、1825年頃には確立されましたが、露光に8時間もの長時間が必要で実用的ではなかったとされています。その後、ニエプスは研究に行き詰ってしまいますが、レンズ機材等の供給を受けていたパリの光学器械製作者シャルル・シャヴァリエを介して同じフランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールと知り合います。
 ニエプスと知り合った当時のダゲールは、既に舞台装置デザイナとして成功し、ジオラマ劇場を経営する企業家であり画家でもありましたが、その職業柄、利用していたカメラ・オブスクラにより形成される光像の固定方法を探究し始めており、1824年頃にはシャヴァリエの店に出入りをしていました。
 こうしてシャヴァリエを介して知り合ったニエプスとダゲールは、やがてニエプスの写真術を完成させるための共同研究を進める契約を結びます。1829年12月14日のことです。
 そうして始まった共同研究ですが、ニエプスは志半ばで世を去ります(1833年)。
 ニエプスの死後もダゲールは単独で、ニエプスの技法の改良研究を続け、やがて銀板写真術(ダゲレオタイプ)と呼ばれる像定着保存技術を発明します。このダゲレオタイプは、鏡面研磨した銀メッキ銅板をヨウ素蒸気に晒してヨウ化銀の膜を表面に形成させて感光面とし、この銀板をカメラ・オブスクラに入れて銀板表面に光学像を「露光」させます。露光時間は日中野外で10~30分程度。これにより露光部分のヨウ化銀がイオン励起状態を作り「潜像」(肉眼では不可視の像)を形成します。この状態で光に晒しておくと化学反応がさらに進み「潜像」は消失します。そこで、暗所にて当該銀板を水銀蒸気に晒す「現像」処理をおこなうと、「露光」で励起状態とされた銀イオンに水銀が作用し銀水銀アマルガムが形成され視認可能な画像が浮上します。このまま放置すると、やはり感光が進み、画像は崩壊しますから、さらに「定着」処理をおこないます。この定着処理には飽和食塩溶液が用いられました。
 以上のプロセスによって作成される「銀板写真」は一点物であり複製不可ですが、反面、極めて高精細な画像が得られました。しかし、必要な露光時間が長かったため、高精細描写により肖像絵画に代わるものと期待されながら、長時間静止できない人物を被写体とするには適当とはいえないものでした。が、それはさて置いても、カメラ・オブスクラの画像を平面上に固定するという所期の目的は、このようにして達成されました。1838年頃のこととされています。
 ダゲールは、ダゲレオタイプの技法を確立すると、公表に先立って、まず一括して売却しようとし、次いで予約金を募ろうとし、それらに失敗すると、科学者や政治家への根回しを始めます。ここで、天文学者でありフランス下院議員でもあったフランソワ・アラゴーが興味を示し、フランス政府に技法を買い上げさせる働きかけを始めます。そうして段取りが整ったところで、アラゴーは1839年1月7日にフランス科学アカデミーで概要発表をおこない、同年8月19日に科学アカデミーと芸術アカデミーの合同会議において、発明者のダゲールを伴ってダゲレオタイプの詳細内容を公開します。

 フランス科学アカデミーでの発表を知って動いたのが、イングランドの政治家であり科学者であったウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットです。タルボットは、既に1835年頃には独自の写真術を完成していたのですが、忙しさにかまけて研究成果を公開しないまま放置しており、その研究も中断されたままでした。タルボットは、ダゲレオタイプの概要発表を知ったとき、ダゲールのそれが自分の研究と同じカテゴリに含まれるものであることに即座に気付きます。
 そこで、タルボットは、発明先取権保持のため、1839年1月25日と31日に、英国学士院、王立協会、フランス科学アカデミーに対して、光で絵を描く写真技法(カロタイプ)を4年前に発明している旨の主張と、その詳細を公開します。
 カロタイプ写真術は、飽和食塩溶液につけて乾燥した後に硝酸銀溶液を含浸させた紙を感光材料とし、カメラ・オブスクラに入れて「露光」させ、硝酸銀、酢酸、没食子酸の混合溶液で「現像」し、臭化カリウム溶液で「定着」するというプロセスによって得られたネガティブ画像を、印画紙に対して密着現像を施してポジティブ画像を得るというものです。晴天屋外での露光時間は1分程度ですが、支持体が紙媒体であることから、ダゲレオタイプに比べると画像の鮮明さに欠け、見劣りしてしまうものでした。しかし、ネガポジ式で複製可能な点においては圧倒的に優位となります。
 タルボットは、その後も改良を重ね、1841年2月にイギリスで特許を取得し、それまでの研究費を取り戻すために、かなり強引な権利行使をおこないます。当初の高額な特許使用料の徴収に加え、後年(1851年)、他人が発明したネガポジ式写真術(コロジオン法;写真湿板)が出回るようになると、その技法を使う者に対しても、カロタイプの特許使用料の支払いを要求して、非難を浴びます。それでも、特許権を守るための多くの法廷闘争を戦い、結果的には全てうまくいかず、やがて特許権も放棄してしまいます。そして、カロタイプは後年発明された各種写真術によって駆逐され、衰退していきます。しかし、ネガポジ式写真術は、21世紀の現在に至るまで基本的な写真技法として利用され続けています。

 ここで、ようやく特許の話が出てきました。そこで、19世紀中頃の特許制度について調べてみました。世界各国の特許制度についての歴史的経緯を含む概要が、特許庁のWebサイトで公開されています(*1)。これによれば、イギリスでは、1624年に最初の特許規制法が制定され、1883年に審査制度が導入されています。また、フランスでは、1844年に最初の特許法が施行され、1968年に施行された現行特許法から審査主義となりました。ダゲールやタルボットが写真術を発明した当時、フランスでは特許法は施行前であり、イギリスでは無審査主義の法体系だったことがわかりました。
 タルボットがイギリスで特許権を取得し権利行使したことは確実のようですが、ダゲールが特許権を利用したのかどうかは不明です。ダゲレオタイプ技法がフランス政府に買い取られたことは種々の文献に記述されていますが、「買い取られた」のが文献により「特許」であったり「発明」であったりと、異なる記載のために確実なことがわかりません。
 フランス政府は、ダゲールに対し、以後の研究資金を支援するとともに、終身年金を支給しています。もう一人の貢献者であるニエプス本人は死去していたので、ニエプスの遺族に対して年金が支給されました。そして、フランス政府は、ダゲレオタイプを一般公開して誰もが利用可能としています(ただしイギリス国内は除く)。いまで言うパブリックドメインです。当時、フランスでは特許法の制定前でもあり、政府として特許利用についての考えはなかったと考えられます。
 フランス政府が、このような策を講じたのは、当時激しく覇権を争っていたイギリスに対し、自国技術の「世界初」の栄誉や優位性あるいは歴史的事実を確保するための政治的野心からの行動だったといわれています。そのような経緯もあり、また、処理プロセスの改良(無償公開による在野研究者らの貢献)や高性能レンズの採用などによって、ダゲレオタイプで懸案だった露光時間は、1~2分からやがては数秒程度にまで大幅に短縮することができ、肖像絵画に代わるものとして欧州貴族や米国社会での需要に広く応えることができるようになり、その結果、急速に世界中に普及しました。
 日本には1848(嘉永元)年に初輸入され、薩摩藩が入手しましたが、すぐに実用化することができず、長年の研究の末、1857(安政4)年9月17日に、藩主 島津斉彬の撮影に成功しています。その銀板写真は現存しており、日本人によって日本人が撮影された初の写真として国の重要文化財に指定されています。しかし、そのように普及したダゲレオタイプもまた、後発技術に取って代わられ、消滅することになります。

 その後の写真術は、湿式コロジオン法、ガラス乾板を経て20世紀初頭のイーストマン・コダックによるロールフイルムへと変遷した後、イメージセンサを利用する現代のデジタル画像に至ります。本稿執筆に当たり調査を進めるうち、上述した技法以外にも、この200年の間に発明され利用され衰退し消滅していった数々の写真術が存在していたことを知ることができました。さらに、消滅したと思われた技術を再現し、写真を撮り続けている写真家が少なからず存在することも同時に知ることができました。消滅させるには惜しいと思える古典写真技法は多々ありますし、中には素人でも試すことができそうな手法もありそうなので、機会を作って試してみようと考えています。また、デジタル画像の先にはどのような写真世界が展開するのかを妄想するのも楽しそうです。
 
 
[ 参考文献 ]
•「発明の歴史カメラ」鈴木八郎(発明協会)
•「図解・カメラの歴史」神立尚紀(講談社ブルーバックス)
•「写真のはじまり物語」安友志乃(雷鳥社)
•「フランスにおける最初の写真技術の発明 : アラゴーの演説とその影響に
  関する考察」槙野佳奈子(『Résonances : 東京大学大学院総合文化研究科
  フランス語系学生論文集』第9巻「Résonances」編集委員会      
  doi:10.15083/00038376 ISSN 1348-2262)
  https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/records/38385
•「初期の時代—-技術・ヴィジョン・利用者たち 1839-1875」(多摩美術
  大学 DigitalTEXT DRIVE-1 Archives Photographer Archives)
  https://www.tamabi.ac.jp/mc/mc1/dar/dt/photo/index.html
•「上野彦馬と初期写真家の撮影術」高橋則英(PDF) 長崎大学学術研究成果
  リポジトリ
  https://nagasaki-u.repo.nii.ac.jp/record/15465/files/OldPhotoStudy3_17.pdf
(*1)「 諸外国・地域・機関の制度概要および法令条約等」特許庁
   https://www.jpo.go.jp/system/laws/gaikoku/mokuji.html

渡邉 信行

2025年に平木国際特許事務所へ入所。特許事務所で実務経験30年以上の豊富なキャリアを活かして、お客様のニーズに合った熟練したサービスを提供します。
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